浅間温泉のご案内 – 歴史

古代-古墳と金銅天冠

金銅天冠

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浅間温泉には、5世紀末のものと言われる「桜ヶ丘古墳」があります。この古墳は、昭和29年に地元の中学生たちによって偶然に発見され、30~32年に発掘調査が行われました。

古墳からは、天冠・竪櫛・勾玉・丸玉・小玉・臼玉・直刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・衝角付冑・短甲・頸甲と多くの装飾品等が出土し、中でも金銅製の天冠は県の文化財に指定されています(松本市考古博物館蔵)。
この天冠は、同じ時期の朝鮮半島から出土された金銅冠と似ており、当時から朝鮮半島との交流があったと推測されます。

中世-松本城主御用達の御殿湯

「善光寺道名所図会」の浅間温泉の図

江戸時代には、浅間温泉に、初代松本藩主の石川数正により「御殿湯」が置かれ、松本城主のお殿様が通うようになりました。御殿湯の初代湯守には、石川数正の三男康次の子である石川昌光が就任しました。
城主や臣下の武士たちの別邸も建ち並ぶようになり、この頃より浅間温泉は「松本の奥座敷」と呼ばれることになります。

現在、この御殿湯の詰所跡が、日帰り入浴施設の「枇杷の湯」として残っています。

近代-アララギ派発祥の地

明治時代の浅間温泉入り口

明治時代以降、浅間温泉は多くの文人墨客に愛されるようになり、特に正岡子規や伊東左千夫からなるアララギ派発祥の地として知られています。竹久夢二、与謝野晶子、若山牧水、田山花袋ら多くの文人墨客が訪れて、この地で優れた作品を残しています。

与謝野晶子歌碑

正岡子規

今でも、桜ヶ丘公園の伊東左千夫の詩碑や、神宮寺の与謝野晶子の歌碑等々に、当時の面影を見出す事ができます。

昭和-絵葉書に見る浅間温泉

昭和30年代頃の浅間温泉は、右の写真のように大型建築物がなく、木造3階建の風情があり豪華な温泉宿が建ち並んでいました。どの宿も灯りが点き、湯治客で賑わっているのがわかります。

路面電車

大正13年~昭和39年、松本駅から浅間温泉まで、路面電車(チンチン電車)が朝5時~夜12時まで10~20分間隔で、多くの乗客を乗せて走っていました。
写真の左奥が、路面電車「浅間線」終着駅の浅間温泉駅の建物です。その手前左側(北西)には田地が広がり、現在ある住宅街は見当たりません。

100人もいた温泉芸者と市丸

松本城の前で踊る芸妓衆

温泉での芸者遊びが盛んだった頃、浅間温泉にも20軒近い置屋おきやがあり、100人もの芸者さんたちがいました。中でも、市丸は、浅間温泉から浅草に出て人気芸者になったあと、歌手になり、アメリカ公演もし、レコード大賞特別賞にも輝いた昭和のトップスターで、浅間温泉に生家があります。
今は、芸者さんは1人もいなくなりましたが、地元の人が通う共同温泉には女風呂の方が大きい所もあり、そこから華やかな芸妓さんたちが「出勤」した小路が当時の面影を残しています。

「浅間温泉」の名前の由来は

西暦698年の飛鳥時代には「束間」と呼ばれていたとされる浅間温泉は、平安時代の939年には、土地の豪族犬飼半左衛門によって「犬飼の湯」と呼ばれた…と言われています。
その後、中世の「吾妻鑑」の文治2年(1186年)の頁に「浅間社」の名が記載されていますので、1000年頃に「浅間温泉」と呼ばれ始めたのではないかと思われます。