束間の湯
 浅間温泉が初めて歴史に登場するのは、日本最古の歴史書である「日本書紀」の天武13〜4年の頁に於いてです。
 「日本書紀巻29」天武13年(685)の中に

『…三野王(みぬのおう・みののおおきみ)、小錦下采女臣筑羅(こにしきしもうねめのおみつくら)等を信濃に遺して、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。』

とあり、天武天皇が都を造ろうと考えるはど、当時「信濃」を重要視していたようです。なお、三野王は、同年4月11日に信濃の地図を献上しています。
 そして翌14年には、軽部(かるべ)の朝臣足瀬(あそんたるせ)・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)・荒田尾連麻呂(あらたおのむらじまろ)らを信濃に下し、その10月10日の条に

「…信濃に遣わして行宮(あんぐう)を造らしむ。
 蓋(けだ)し束間(つかま)の温湯に幸せんと擬すか。」

とあり、束間の湯へ行幸しようと考えていた事も明らかなうえ、さらに天皇は行宮まで造らせています。

 残念ながら、天武天皇は翌15年に崩御されたため、束間の湯行幸も行われることなく、遷都の件もなくなってしまい、持統天皇8年(694)ご存知のように藤原京に遷都されることになりました。
 その後、行宮に関しても束間の湯に関しても「日本書紀」には記載がなく、建造された行宮の場所も束間の湯の場所も明確にはなっていません。

 そもそも、この束間の湯とは筑摩の湯のことで、筑摩郡の中の浅間か山辺湯ノ原のどちらか、または筑摩地域にある温泉の総称であるのか確証はありませんが、先の桜ヶ丘古墳により、当時、天武天皇に仕えた有力な氏族が浅間温泉にいた事を考えると、浅間温泉こそが束間の湯なのであろうと推察する事ができます。


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