江戸時代に入ると、浅間温泉には初代松本藩主石川数正により「御殿湯」が置かれ、その初代湯守には、石川数正の三男康次の子である石川昌光が就任しました。
同時に、城主や臣下の武士たちの別邸が建ち並び、この頃より浅間温泉は「松本の奥座敷」と呼ばれることになります。
ところが、この御殿湯の設置により、温泉は藩主の権力によって支配される事になってしまいます。湯坪16坪のうち6坪を藩主専用の御殿湯、7坪を家臣の湯とし、残りの僅か3坪を「入込の湯」として一般に開放し共同浴場にしたのがそれです。
その後、新しい源泉の発見や、個人持ちの内湯の私有が認められましたが、松本藩主によるこの特権は明治維新まで続くことになります。
さて、松本藩主石川氏は2代康長の慶長18年(1613)大久保長安事件に連座して改易されてしまいますが、御殿湯の湯守である石川昌光は名を小口と改め小口楽斎と号し、その後明治に至るまで、代々小口家が湯守となって城主専用の御殿湯としてこれを管理してきました。現在、この御殿湯の詰所跡が枇杷の湯として残っています。 |